Today's me 〜悠久の時を経て〜

どういう風に書き出していたのか忘れたが、恐らく挨拶なんてしていなかったであろうから、適当に書けばいいはずだ。私はオリジナルなのだから、私の為すこと全て正解なのだ。唯一無二。

しばらく見ないうちに読者が増えているような気がする。活動しなくてもなおファンが増えるのは、それほど生き様が魅力的であるということを示しているのではないか。それこそがこのブログを開設した理由でもあるため、ほんの少し嬉しい。もしかしたら気のせいかもしれないが。


最近、バイトを始めた。特定されることを避けるため明言はしないが、とてもファニーなバイトである。

基本的には夕方から日付が変わるまでで、朝から夕方までという日もある。が、そちらはまだ未経験。3人のお兄さんお姉さんに少しずつ仕事を教わっているのだが、そのうちの3人から昼は客が多いと聞いているため、今から少し鬱である。

今までは、親戚が営む居酒屋で週に1度3〜4時間ほど働いていたのだが、最近始めたバイトはいきなりズドンと8時間。普通に無理。

あまり客がいないのが唯一の救いではあるが、でもきつい。しかも家に帰り着くのが深夜で、ご飯食べたりお風呂に入っていたりしたらあっという間に丑三つ時。ダラダラしていたら3時とかになっちゃうから、まあまともな生活習慣は送れない。元々ダメ人間の代表みたいな存在であることもあって、昼夜は逆転せざるを得ない。可哀想。

なまぐさである私は、何をするにも多大なエネルギーを消費してしまう。このブログだって、爪を切るかブログを書くかで迷った結果生み出されている。爪と同価値。爪は爪でも『私の爪』である以上、多少の価値はあるが、まあどれだけブランド化しても所詮爪だ。その辺の脾臓くらいの価値しかない。


集団で運営しているものとは違って、このブログは私1人のものだ。だから何をしても許される。今ここで終わらせることもできるし、逆にこのまま無限に続けることもできる。『一度読み出したら終わるまで目を離せない』なんて人がいれば、その人の人生はこの記事を読むだけで終わってしまう。うっかり無限に続けちゃうとこの記事を投稿することもできなくなるため、仮に『一度読み出したら終わるまで目を離せない』なんて人がいたとしても大丈夫。この記事を目にすることはないまま、『そこそこ教養のある人』として57年後くらいに人生の幕を下ろすだろう。

「ねずみくんのひみつ」 〜Today's me〜

年々インターネットが発達し、手軽に世界へ向けた情報発信が出来るようになっている。これは素晴らしいことだ。例えば、「一人暮らしの人にオススメな簡単料理」や、「この道具はとても便利」などの有益な情報を発信、受信することが出来る。また災害の多いこの国では、SNSを通じたレスキュー要請も多々見られる。しかし残念なことに、メリットもあればデメリットもある。間違った情報が発信されることだ。他人から得た情報を、間違った認識のまま拡散してしまう人がいる。そういった問題を取り上げた作品が「ねずみくんのひみつ」である。

ねずみくんの粗相を見たねみちゃんが、それを友達に伝える。しかしその友達は聞き間違えてしまい、あろうことか聞き間違えたまま他の人へと伝えてしまうのだ。これは、SNSで頻繁に起こっている問題を極限まで縮小した話ではないだろうか。数回の聞き間違いを繰り返した後、再び情報発信源であるねみちゃんへと回ってくるのだが、その時には全くもって別の話へと変わっていた。大問題である。ねずみくんが粗相をしていた事から始まり、ぶたくんやうまくん、ぞうくんなどいろんな人を巻き込んでいるのだ。もしこれがインターネットという大舞台で起こっていたとしたら、世界中をも巻き込む大混乱だっただろう。可愛くデフォルメされた動物の話だったからいいものの、これが中学生や高校生であれば、見るに耐えない惨事だったはずだ。

現在問題となっているインターネット上のトラブルの原因として、使用者のネットモラルが低すぎることが挙げられる。軽々しく他人の本名を出す、他人の写真を投稿するなど、数々の問題が起こっている。これは如何なものだろうか。確かにインターネットは便利だ。冒頭で述べたように、かなりの数の利点がある。しかし、最低限の知識が無ければ全て欠点へと変わる。自分が被害を受けるだけならまだしも、他人に被害が出ることもあるのだ。この作品に於いても、アヒルくんを始めとした数人への被害が出ている。ねみちゃんにも火の粉がかかっているが、それは自業自得であるとしか言いようがない。

これは実際に起こっているトラブルにも共通していることである。何も悪いことをしていない人をSNSで晒しあげ、それを面白いと思った人間が拡散する。基本的にはそれの繰り返しだ。時には、最初に晒しあげた人が個人情報を特定され、それを拡散されるということもあるが、どっちもどっちである。

なぜこういった問題が起こるのか。と聞かれると、先に述べたようにネットモラルが低いことが原因と言えるが、晒す晒さないの問題になると、本人の精神年齢の低さにも原因があると考えられる。SNSを始めとしたインターネット上には、やたらと自分の優位性をアピールする人がいる。こういった人達は、他人を晒すことによる「悪を成敗する自分」に酔っているのだろう。悪を成敗する自分が悪に染まっていることに気付かずに。

そういう大人達は、一般的に絵本を好んで読むであろう年齢の子達よりも幼く見える。画面越しで煽りあっている大人達より、私の知っている子ども達の方がよっぽど大人である。ネット上でしか優位に立てない人間は、子供心を忘れることが出来ないのだろう。

作者の意図がなんなのかは想像することしか出来ない。つまり、読み手の受け取り方次第なのである。ほんの少し間違えただけで、自他共に多大な被害を受ける。自分の目で見たものだけを信じろ。この作品には、そういったメッセージが込められているのだと私は感じた。一見子どもの読み物だと受け流しがちだが、幼い子に向けたものであるからこそ、忘れてはいけないことが描かれているのだ。その事に気付けた私は幸せだろう。これからの人生で、まだまだ成長することができる。大人になるからといって賢ぶった本だけを読むことはせず、子ども向けの本も読んでいこうと思う。

この作品で学んだことは、早速ツイッターで広めるつもりだ。

夏日を浴びる水飛沫 ~Today's me~

実は、私は泳ぎが得意ではない。自分の短所を曝け出すのはどうかと思ったが、嘘をついてまで隠すことではないと思ったため、ここに書き記そうと思う。まったく泳げないというわけではなく、不格好ながらも25m泳ぎ抜くことが可能ではあるのだが、極力泳ぎたくないのだ。

そんな私の通っている学校では、年に2, 3度水泳の授業が行われる(もちろん夏に)。『学校指定の水着』なるものがあり、水泳の授業に参加する際はその水着を着用しなければならないため、ほとんどの生徒が入学時に購入する。私も例に漏れず購入したのだが、いつの間にか失くしてしまった。おそらく2年前だとは思うが、正確な時期はわからない。

学校指定の水着を失くしてしまって以来、水泳の授業には参加していない。「代わりの水着はないのか」と思うニンゲンもいると思うが、インドア派である私は、中学2年生のころに購入して以来、新しい水着は買っていない。中学3年の夏休みに急激な成長を遂げてしまったため、今現在、着られる水着を所持していないことになる。

去年は1度たりとも参加していないが、最終評価は90点を超えていた。なのであれば、水泳に参加する理由はないではなかろうか。あと10回もない水泳の授業のために水着を買うなんてことしたくない。このまま泳げなくてもいいから水泳したくない。

嫌よ嫌よも好きのうち』というし、もしかしたら私は水泳のことが好きなのかも。なんちゃって。

 

冗談を抜きにしても、もうすぐ20歳になるのだし、嫌なことから逃げてばかりいるのはやめたほうがいいのかもしれない。と思ったこともあるが、かの有名な徳川家康公も敵前逃亡をしたらしいし、そんなに気にすることではないかもしれない。なんなら、うんちを漏らしていない分私の方が偉い。かもしれない。

徳川家康、意外と大したことないのかもしれない。

 

ではさよなら。ばいちゃ!

忘却の彼方 ~Today's me~

かつて、精力的に文章を構築し続けていた私であるが、もうしばらく文章を綴っていない。飽きてしまったというのもあるが、一番大きな要因は『書くことがなくなった』ことなのだ。ついでに『忙しくなった』というのもある。何故か私だけ新たな環境に放り込まれてしまったが故に、その新しい環境に一刻も早く適応しなければならなかった。私が思っていたよりもずっと、『環境に適応する』ことは大変で、このブログを更新する余裕は生み出せなかったのである。ちなみに、新しい環境は割と早く私を受け入れてくれた。いやはや、周りの人に感謝である。もっとも、私のカリスマ性が漏れ出ていたことも起因しているであろうが。

 

ではなぜこのタイミングでブログを更新したのか、と疑問に思うニンゲンもいると思うが、特に理由はない。強いて言うならノートパソコンに慣れるためだ。キーボードが小さすぎる。トモダチにブログを更新しないことについて意地悪され始めたからでもあるが、まあ微々たるものである。器が大きい私は、その程度のことはあまり気にしないのだ。えらい。

私のおてては平均より大きい。トモダチのうち何人かに言われたことがあるため、きっとそうなのであろう。私はトモダチを疑わない。特に親指が大きいらしく、軽くひかれた経験がある。最近自分でも「親指の形気持ち悪いな・・・」と思うようになってきたくらいには大きい。私が新しく手に入れたノートパソコンの横幅は、1.3左手くらいであり、めちゃくちゃ小さい。これが普通なのかもしれないが、私は情弱機械音痴な無知だからわからない。Walking DictionaryならぬWalking White Paperである。頭空っぽのほうが夢詰め込める、と聞いて以来、ありとあらゆる情報をシャットダウンしてきたのだ。特に夢はないのだが。

持ち運びが可能で、外出先でもレポートを書くことができるのだ。なのに外出先で「あれ、打ち辛いな」なんて言ってられない。「キーボード小さくてもへのへの河童!」くらい強気でなくちゃレポートなんて書けやしないのだから、今のうちに慣れておかなければならない。ということで、久しぶりにブログを更新しようという気になったというわけだ。

 

しばらくぶりに書いてみると楽しいが、これを毎日やるのは辛い。またしばらくサボることになりそうだ。が、愛想を尽かさないでくれると嬉しい。

家から出なかったときに比べると、刺激の多い日々であることは間違いないのだが、ブログを書く気にならないのはなぜだろう。これを読んでいるニンゲンよ、ぜひ考えてみてほしい。これは私からみんなへの宿題だ。

遺すべきものも遺せたし、この辺で筆を置こうと思う。ではまた近いうちに。

ばいちゃ!

静かな雨音 〜Today's me〜

"お日様のニオイ" の正体が、実は "ダニの死骸" だった。という話を耳にした。

本当なのだろうか。

所詮ネットの情報であるため、鵜呑みにするつもりはない。しかし、もし仮に、万が一この話が本当だった場合、私の心は大きな傷を負うことになる。


布団を干した日の夜は、とても幸せな気分で眠りにつくことができる。

お日様にポカポカ照らされたお布団は暖かく、そして心なしかフカフカしていて、さらにお日様のニオイが漂っているからだ。

しかし、お日様のニオイなのか、ダニの死骸のニオイなのか。その答えには、幸せな気分になれるのかどうかがかかっている。


とはいえ、よくよく考えてみるとダニの死骸なわけがないのだ。

毎日お風呂に入っている私はとても清潔だし、そんな私が使っている布団も清潔である。清潔な場所にダニなんていない。ダニがいないのだから、ダニの死骸があるわけない。お日様のニオイはお日様のニオイなのだ。

所詮ネット、ということだろう。


やはりネットは信用できない。

嘘ばかり転がっていて、ろくな情報がない。

もっともっと有意義な情報源を見つけなければ。

NHKに受信料を払ってでも、テレビに齧り付くべきだろうか。親と相談するとしよう。


さよなら。ばいちゃ。

人の気持ちを考えるということ 〜Today's me〜

"箱の中のカブトムシ" という思考実験がある。

数人のグループがあり、その1人1人に "カブトムシが入っている箱" を渡す。それぞれの箱に入っているカブトムシは違う形をしていて、他の人の箱の中を見ることは出来ない。つまり、自分の箱に入っているカブトムシがその人にとってのカブトムシなのだ。

ある人にとっての "カブトムシ" が、他の人にとっての "カブトムシ" であるとは限らない。という話だ。たぶん。


そのグループの中に見栄っ張りな人間がいれば、「俺のカブトムシはすごくデカい。ツノも立派でカッコいい」なんてことを言うかもしれない。しかし、それが嘘かどうかは本人しか知り得ない。実はカブトムシじゃないかもしれないし、実際はめちゃくちゃ小さいかもしれない。でもわからない。その人の箱の中を見ることはできないのだから。


これを人の心に置き換えてみると、なかなか面白い話になる。置き換えなくても面白いが、置き換えた方がより面白くなる。


例えば、これを読んでいる人が友達と2人で道を歩いていたとする。

大型トラックが走ってきて、2人同時に同じように宙を舞った。貴方が痛い思いをしていたとしても、その友達が痛い思いをしているとは限らない。

その友達はめちゃくちゃ演技が上手くて、痛がっているフリをしているだけかもしれない。

その友達が「痛い」と訴えていたとしても、本当は痛い思いなんてしていないのかもしれない。

人の気持ちを理解することは不可能なのだ。


世の中は嘘が溢れている。

テレビなんて全部嘘だし、テレビ以外もほとんど嘘。

嘘じゃないのは自分自身の存在だけだ。そこには確かに "自分" がある。

それ以外の人から見るとそれも嘘なのだが。


さよなら。ばいちゃ。

誰も知らぬ冒険の書 〜Today's me〜

テレビを見ていると、UMAを取り上げている番組が流れ始めた。

「ロマンあるなぁ」

なんて思いながら、ありとあらゆる未確認生物をネットで調べていたことを懐かしんだ。


私は、未知なるものにロマンを感じる。

知らないことは怖いことであるが、同時に面白いことでもある。

私は、知らないことを知る悦びを知っている。数年前までは知的好奇心の権化であったのだから、当然といえば当然なのだが。


ネットに浸かっていると、無知な人を叩く人間をよく見かける

「にわか」という言葉を自分勝手に使って、無知を虐げているのだ。

ルーツを辿れば、誰もが無知だった過去を持つ。無知であった頃は、無知でない人に知識を教えてもらっていたはずなのに。人は1人じゃ生きていけないということを知らないのだろうか。


無知は恥じることではない。無知は無恥。なんちゃって。

しかし、誇ることでもない。知識の無い人と知識のある人では、やはり大きな違いがある。

"学問のすゝめ" にも似たようなことを書いていたような気がする。私は無知だから合っているかは知らない。


知らないからこそ面白い。

そう考えられる私には、まだ知的探究心が残っているみたいだ。

この時代では、小さな端末を介して様々な世界を覗ける。いいタイミングで生を受けたものだ。神に感謝。

見聞を広めるという名目のもと、明日もスマホを触り続けようと思う。


ではさよなら。ばいちゃ。