多様性をも凌ぐ画一性 〜Today's me〜

自分ですら、自分には敵わない。


"哲学的ゾンビ" というものがある。別に知らなくてもいい。興味を持ったのであれば後で調べればいいし、興味がないのであれば夢の世界へと逃げ込めばいい。

哲学的ゾンビというのは、物理 化学 電気、あらゆる面では普通の人間と同じだが、意識を持たない存在。めちゃくちゃ精巧なロボットみたいな感じである。誰が考えたのかは知らないが、かなりの変人であっただろう。

そもそも意識とはなんなのか。という話へと繋げることは出来るが、せっかくの長期休暇であるのに、そんな変な事は考えたくない。よって、軽く触れる程度で終わらせようと思う。

自分には意識があることは簡単に証明できる。「俺(私)(僕)に意識はあるのだろうか?」と考えている時点で、確かに意識を持っている。しかし、今周りにいる人間に意識があるかどうか証明できるか?「話しかけてちゃんと返事が返ってくるのであれば、意識があると言える」という人もいるかもしれない。それは本当に正しいのか?物凄く細かく設定されたプログラムかもしれないのだぞ?

Siriに意識があるか?ないだろう。少なくとも今のところは。それと同じだ。形を持つか、形を持っていないか。違いはそれだけ。


感情や意志など、精神的なものの研究は、今もなお続いている。

合理的な判断に感情は必要ないが、全く感情のない人間なんて存在しない。

今思い出したが、テセウスの船がそういう話だった気がする。思い入れの強い物を、全く同じ材料、手順でもう1つ作った時、それは同じ物だといえるのか。という話で、決して竹内涼真主演のドラマじゃない。

全く同じ物だとしても、愛着や思い出があるわけで、全く同じ物だと言っていいのか否か。ウォーターセブン編で、カクかアイスバーグが似たような事を言っていたはずだ。

ゴーイング・メリー号とのお別れシーンは何回見ても泣ける。なんならルッチとルフィの勝負が終わった辺りから瞳がウルウルし始める。

閑話休題

私は人から貰ったものは大切にするタイプなので、全く同じ素材で作られた物でも、1つ1つ想いを背負っているのだと思っている。付喪神リスペクト。


話を戻すが、この国には「周りに流されやすい人」が大量に生息している。空気を読んでいるのではなく、自我を押し殺しているタイプ。私は自己中心的なわがままちゃんであるため、基本的にやりたくない事はしない。周りから見るとそうではないかもしれないが、少なくとも私はそうしている。

「周りに流されやすい人」は、哲学的ゾンビと呼んでも差し支えないのではないだろうか。「周りがやるから自分もやる」というのは、ただそうプログラムされた生き物に他ならない。そこに意識が存在しているのかもしれないが、観察者である私が「周りに流されている」と判断した以上、「周りに流されている」のだ。

まとまった数哲学的ゾンビがいると、ねずみ算式に哲学的ゾンビが増えていく。多数派に押し流され、徐々に自我を失っていく。だからゾンビというのかもしれない。

いつの日か、世界中に哲学的ゾンビが溢れ返る世界が来るのかもしれない。しかし、何の力も持たない私は、その時が来ても隅っこで震えることしか出来ないのだろう。


ばいちゃ!